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 当サイトは、江戸時代後期に隠居後の50歳から天文暦学を学んだ伊能勘解由(諱;忠敬)が、日本全国津々浦々島々に出張して、北極出地度(緯度)及び沿海の形状を実測したその科学的測量の実態を、傘寿を迎えたサイトの管理人が図らずも知って感動し、以来、その科学的アプローチを調べたレポート等を掲載しています。


冬休みの自由研究(勘解由先生が観測した冬の星座)! new


 今日は令和5年1月13日(金)である。夕刻8時頃、南東の空には文部省唱歌「冬の星座」の歌詞として歌われている星々が輝いていた。
   ほのぼの明かりて 流るる銀河
   オリオン舞い立ち スバルはさざめく
   無窮(むきゅう)をゆびさす 北斗の針と
   きらめき揺れつつ 星座はめぐる

 この冬の星座を今から220年前(享和2年9月23日<新暦10月19日>)に、伊能忠敬は越後国太郎代浜の名主忠兵衛宅で観測していた。
 測量日記によれば「此夜曇天、暁七ツ頃、測量」と記されている。
つまり、通常の観測時間帯は夕刻の2時間ばかりの間であるが、その時間帯は雲が出ていたので観測できなかった。しかし、暁七ツ頃というから翌日の未明の2時過に至って観測したという。その観測の記録が「北極高度測量記(伊能忠敬記念館所蔵の国宝)」という史料に残っていた。

この記録データを解読した結果は次図のとおりである。

次図は、勘解由先生の孫である伊能忠誨が師匠の高橋景保からの指導で作図した星図である。


<解読における特記事項>
  ①  実測データにおいては「参宿三」が重複しているが、最後から2番目の参宿三は、観測の順番および観測高度から推し量った結果、参宿三→参宿四に変更した。
  ②  測量日記によれば、「此夜曇天」であったが、執拗に天体観測への意欲に燃えた結果であろうが、未明の午前3時過ぎから1時間ほどの間に11個もの恒星を観測していた。にも拘わらず、翌日は「六つ半 太郎代浜出立」とのことで、寝る間も惜しまずの測量行脚であったようである。
  ③  解読の結果、深川で観測した際の各星の高度との差分Bの単純平均値(黄色でマスキングした2°17′47″)を、深川の緯度(35°40′30″)に加算した太郎代浜の緯度値は、緑色でマスキングした37°58′17″)となる。ところが、実測データの朱書では「58′50″→59′00″とする」との調整を行ったとしている。     この調整は、大気差の影響を大きく受ける低高度の恒星(厠)のデータを排除したものと思われる。
  ④  実際に観測した場所(名主忠塀衛宅)がどこであるかは定かではないが、 伊能図に押された星印から、
      北緯 37°59′02″
      東経139°13′12″
の近辺であろうと比定される。
  

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    令和五年六月二十六日
    管理人 戸村 茂昭
     えるワークさんむ会員
                                    


 
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