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伊能測量の要諦
江戸時代後期、外国との交流が制限されていた時代において、現在の日本列島の衛星写真にぴったりと重なり合うほど精密な地図を伊能勘解由(諱;忠敬)翁は作りました。
このような向学心もさることながら、師匠が
“地球の大きさが分かれば、暦がもっと正確になるのだがな~!”
と つぶやいたことを耳にしたことから、”地球の大きさ”を求めてやろうと思い立ち、五十五歳からのシニア世代の足掛け十七年にもわたって日本全国津々浦々島々を行脚して実測した、というその生き様が興味深いということから、これまで様々な伊能本の出版やTV番組の放映などが行われました。
それら伊能本等においては、「どこどこで、かくかくしかじかの足跡を残した」とか、「伊能図の種類とその特徴」とか、「伊能忠敬の人物像」等という面の紹介がこれまでは主でした。
しかしながら、隠居後に学んだ天文暦学やその知見を活かした測量行脚先での天体観測において、
・具体的にどのような天体を測った のか、
・測って得た具体的なデータはどのようなものであった のか、
・地球の大きさをどのように求めた のか、
・実測データを具体的にどのように地図作成に適用した のか、
という科学的側面については、残念ながら、これまで殆ど紹介されてこなかったように思います。
例えば、具体的にどのような天体を測ったかに関して、殆どの伊能本は「北極星などの恒星の高度を測って緯度を求めた」と紹介する程度でしたが、実際上は「北極星を測ったのは極めてまれ」だったのですから、この表現は多分に誤解を生みます。具体的な誤解の事例として、市販されている図書では、
「北極出地とは、地球上から北極星を観測したときの仰角のことで、地心緯度とも云う」
という具合に、不正確な表現になってしまっているのです。
“北極出地度”とは、正確には、“観測地点における地平線から真の北極への仰角”なのであって、北極星では間違いなのです。なぜならば、自転している地球というコマの軸が立っている北極点の天頂、即ち「真の北極」に北極星は存在しておらず、その真の北極から少しズレた所を周回しているからなのです。 そして、“北極出地(緯度)とは、三角形の原理から、観測地点と観測地点の天頂を結ぶ直線が赤道面と交差する角度(これを“地理緯度”と呼ぶ)”のことなのです。
でも、その赤道面と交差する角度を地球の内部に潜って測ることができません。
ことほど左様に、これまでの「伊能忠敬本」などは、「伊能勘解由」が隠居後に学んだ天文暦学の内容や、その知見を活用した天体観測という伊能勘解由自身が自分を褒めてやりたいと思っていた肝心要の部分を棚に上げて、
「どこどこで、かくかくしかじかの足跡を残した」とか、
「伊能図の種類とその特徴」とか、
「伊能忠敬の人物像」
というような面だけを紹介していたきらいがあるように当サイトの管理者は感じて歯がゆい思いをしていました。
そこで、当サイトでは、これまでの「伊能忠敬」ではなく、敢えて隠居後に「伊能勘解由」と改名していたシニア時代に行った測量の肝心かなめの部分である天体観測などの科学的アプローチの側面に的に絞って、その実態を浅学ではありますが紹介することにしました。
令和二年 秋 サイト管理者
最近(2021/5/5)のトピックス
最近、伊能忠敬を扱った新刊文庫本「伊能忠敬の日本地図(渡辺一郎著)」が河出書房新社から発行されたので入手しました。伊能図完成・幕府への上呈(文政4年<1821>)から今年(西暦2018年)は200年目という記念の年にあたることから、著者は生前から今年の発行を意図して原稿を執筆していたそうです。
残念ながら、昨年の6月末にお亡くなりになったので、遺作となってしまった。
本書は、20年ほど前に発行された「図説 伊能忠敬の地図をよむ」を底本にしつつ、著者の「伊能図探検と発見の旅」を新たに書き下ろして収録したもので、伊能忠敬・伊能測量・伊能図への入門書として手頃な図書になっているようです。
このサイトの管理人は、実はこの図書の著者の弟子でもあるので、勝手ながら、忌憚のない感想を、以下述べてみたい。
「途方もない実測地図!」と、この図書の帯には刷られている。その文言の説明を「幕末になって西洋文明が急速に流入し世の中が一変する。実測図でなければ、もはや地図とは呼べないことになる」と本文では説明しているが、どうも、イマイチ、説明に具体性がなく曖昧のように小生は感じました。
実は、測量日記第一巻に、伊能忠敬は、伊能測量の特徴を幕府に説明する段階で、幕府役人でさえも気付いていなかった地図つくりの基本のキを、次のように既に説明しているのです。
「地図を精しく認め候術の第一は、北極出地度、第二は方位に御座候」
と。
地図に対するこの捉え方は、天文暦学を学んでいた忠敬だからこその科学的認識であって、「日本列島だけの途方もなく精密な姿かたちをした地図を目指したのではなく、“地球上における日本列島の在り様”を図にしたものが地図(地球の文様図)の本質」である、ということを認識していたからだろうと思うのです。
“地球上における日本列島の在り様” とは、少なくとも緯度情報(北極出地度)が盛り込まれており、緯度一度の距離が分かっていれば、球体である地球の大きさが分かるのですから、球体である地球のどの部分に日本列島がどのような形で存在するのかがはっきりするのです。
そのことによって、正しい暦が作れることになるわけです。そのような狙いで蝦夷地の伊能測量が始まり、その延長で全国測量にまで発展したのでしょう。
途方もない実測地図!とは、天体観測という科学的実測方法を全国レベルで採用したことが功を奏して、地球上のどの位置にどんな形の日本列島が位置づけられるかが分かるような地球図を描くことが可能なほどの実測地図であった、ということでなければなりません。だからこそ、シーボルトは世界地図上に日本列島を描き込むことができたのであり、その世界地図を利用したペルー提督が日本に来ることが出来、そのことによって日本の夜明けをを導くことになったという意義が伊能図にはあるということなのです。
本サイトは、その伊能測量の科学的実測に焦点を絞った唯一のホームページだと自負しています。
伊能勘解由翁が測った星
(一次測量 寛政十二年五月二十九日<西暦1800/7/20> 於 蝦夷 大野村<北斗市>)
天文学を学んだ伊能勘解由翁は、測量出張先の宿で、晴れていれば20~30個、雲がある場合は5~6個の恒星の高度(仰角、これを「地高度」と言います。)を測りました。その「地高度h」と「赤道緯度α」とから、一次測量においては数式を使って、二次測量以降では大気差の影響を考慮して極差を使って「北極出地度(緯度)」を星ごとに求めたのです。
その上で、測量誤差を消去するために、星ごとの「北極出地度(緯度)」の平均値を計算することによって、その測量出張先の緯度を求め、そこを地図の基点としました。そして、その基点と基点の間を量地測量で求めた測線で結んだ地図だからこそ、西欧の人々も感動したほどの精密な地図となったのです。
天体観測方法と緯度(北極出地度)の求め方
伊能勘解由翁が観測地点の緯度(北極出地度)をどのようにして求めたか、については、測量日記第三巻(第一次<蝦夷地>測量)において、次のように認めてあります。
「北極出地度の儀、泊々にていずれも子午線儀を相用、恒星中の大星をえらび、天気曇り見えがたき節は五、六星、晴天の夜は二、三十星も皆その地高度を象限儀を用いて測量仕、兼て測置候恒星の赤道緯度を相用、その所の北極出地度を相求め申候。北極出地度を一星毎に如此仕り其の中取り候て、其の地出地度と相定申候」
前述したように、測量地点の緯度を直接的に求める事は出来ません。所が、恒星には、その恒星の天球上の座標が予め調べられて分かっています。それを赤道緯度と赤道経度と呼んでいます。
赤道緯度とは、その恒星と地球の赤道面とを結ぶ直線が赤道面になす角度です。この各恒星固有の情報である赤道緯度とその恒星が観測地点の天頂からどれだけ離れているか(天長距離)が分かれば、恒星の地高度を観測することによって、下図の仕組みによって、
緯度=観測恒星の赤道緯度+観測恒星の天頂距離
δ=α+(90-h)
・観測恒星が天頂よりも北側である場合
緯度=観測恒星の赤道緯度-観測恒星の天頂距離
δ=α-(90-h)
として、緯度(北極出地度)を求めることができるのです。
*伊能勘解由翁敬は、一次測量の場合、このオーソドックスな方法で緯度(北極出地度)を求めたのです。